2022/08/31

前回書いた文が、あまりにも読んでいて悲しかったので驚いてしまった。書いた覚えも投稿した覚えも無かったので、よほどだったのでしょうと思いはしたが、稚拙さや見窄らしさしか無いようなとんでもない文だったので、俺はこんなものしか出せない体になったかと落ち込む内容だった。あなたもうちょっと書き殴り方あったでしょう。弱々しくて、悲しくて、それはそれで面白かったので消さなかったですが。 表現や何かを作るような活動に関わっている自覚は全然ないんですけれど(そういう活動になってしまっているものもあるかもしれませんが)、最近表現という漠然とした生産活動に関して「受容」と「翻訳」が大きく関わるものだなということをぼんやりと考えていて、自分の中では割と感触がある気がしているんです。(表現にも受容にも翻訳にも明確な定義をせずに進みます)
無や0に数えられる何かから何かが生まれるのをあまり想定していないし経験としてあまりない人間なので、自分に飛び込んできたものや取り込まれるために飛び込んできたものがきっかけ(きっかけと言うには始点としての意味合いが強すぎて気になるけどこのままにしておきます)としてあるんじゃないかなと。その残り方は受容によって自分のものにならなかったり、形づけられたり、形とは違う何かで残ったり、残らざるを得ないようになったりして、からだに残っていくんだろうなと。取捨選択や形状のあり方を決めるのが受容の役割で、表現に対しての大きな部分を担っていると自分の中にはまぁまぁ腑に落ちているなと思ってるんです。翻訳を置いているのはそれらの外への出方を決定しているなと思ったからです。からだから出ていくことを表現として見ているんですが、(それが他人の理解の範疇に置かれる置かれないを無視して)出ていく形は問わないが、それは明らかに何らかの形をして出ているのではと。楽器を弾くことでも、稚拙な文を書くことでも、右足を出すことでも、止まることでもいいんですが、それらは意図や意識の有無に関わらず、出ている(出てしまってる)ことで、それは翻訳した結果だなと。その翻訳も等しくはなくて、千差と万別があるようなものだったり、するのねぇと思うんです。 ここまで書いておいて僕が説明したい翻訳に失敗して体から出てきた文はあちらとです、と紹介すればわかりやすいものが前回の文かもしれませんが、世界の終わりの柔らかさは最期に感じた柔らかさと同じなのかなとか考えてしまうので、身を乗り出して挙げるようなことはやめます。

伝えよう伝えようというのがカッコの多さからわかっちゃって可愛くない?って読み返して思っちゃった。次回はなんか、ちゃんと書きます。楽しかったので。