人を測ることを押し付けられてるような、見知らず測られているような、不思議な世の中になったと感じていることが多くなった。そう思ってしまっている。自分の弱さかもとさらに自分を疑うことも増えてきた。
自意識の駆け引きと、好きも公にすることを縛られて監視されているような違和感にもぞもぞすることに、何かを控えたり、誰かの何かを咎めるような感覚を持ってしまうことがたまにあって、その度に自分のこれまでを振り返る事があって、そこに大小の懸念と疲れを伴うのが、本当に煩わしい。
自分からの話でも、知らない人や知らない話をわがままに推し量ることが、多く当たり続けてしまう情報に対する軽い感想や日常として当たり前になってしまって、ひっくり返して強さを求められてるような強迫観念が、手狭な気持ちを走らせて、この世界にいない方が良いんじゃないか、その内いられなくなるんじゃないかと一瞬思い巡ってしまう。
でも、SNSで見る彼や彼女も、SNSで見る彼や彼女でしかなくて、君は友達の君だし、あなたは恋人のあなたでしか見れないことを知っていて、その事実だけを抱き締めてる。
年月から生まれた、もしくは生まれてきていない関係には抗えなくて、関係の濃淡からしかわからないし把握はできなくて、本当のことはそこにしかなくて、実際、距離感の話をずっと続けているだけだった。
だから誰かの何かは、ただの自分と相手の角度の問題で、好みの問題で、どこかで愛おしく、どこかで距離のある話に落ち着いてしまう。1対1は、どこかで別の1対1を生むし、それを肯定することが、自分の1対1に対する正直なような気がする。(誠実かは、少し悩むところだけれど、そうだと信じている)
深くは無い自覚に、浅くも無い自信が、その思いにあって、それが誰かを薄く救うことだけ知っているし、自分を薄く救うことだと言うことに気づいてきた。これまでのそこそこの人生で学んだことで、それだけはわかっている。痛感している。(だから誠実に疑問を持ち続けてる)
それでも、関係が変わっても、あなたから生まれてくる全ては、愛という関係から見て、好き勝手に好きで、それはずっと変わらないことだし、自分もあなたも肯定してることがずっと続いてるんだよ。それが愛だと信じて証明するんだよ。